2012年都知事選~2014年都知事選の結果を受けての東プロ総括

はじめに ~都知事選に取り組むようになったきっかけと経緯~

(1) きっかけ

  「東京をプロデュース」の誕生は2005年秋。立ち上げた中心メンバーは2003年に子どもを都立高校に通わせていた保護者たちである。自由な校風が受け継がれてきた都立高校は、生徒たちの自主自律の精神を育むすばらしい教育環境であった。

 しかし石原慎太郎氏が2003年春に当時最多の308万票を得て二期目の都知事選で圧勝すると、東京都教育委員会は、現場の教員の異動サイクルを極端に短く変更して生徒を見守る余裕を奪い、教職員に日の丸や君が代への態度を強制する(10・23通達)など、自主自律の精神とは相容れない施策を次々と繰り出してくるようになった。都立の校風に理解と誇りを持っていた保護者たちは、自分の頭で考え行動できるようにするという教育の根本理念からかけ離れた都の教育政策に危機感を持ち、署名や陳情、集会を開く等の活動を開始する。そして、都教委の方針を転換するまでの世論を高めるには、そういった集会などに縁遠い一般都民にも伝えていく必要性を強く感じて、大多数の都民が政治参加する機会「都知事選」で教育委員の任命権者である都知事を変えようと呼びかけるに至った。

 

(2) 2007年都知事選に向け統一候補をめざす

  石原都知事を破るには、対抗する勢力が力を合わせるしかない。政党や団体等と面談を重ね、2006年秋に東京都では初めて、民主党、社民党、生活者ネット、新社会党、それに、革新都政の会から出馬を表明した候補者が一堂に会しての「大胆シンポジウム」を開催した。しかし、力を合わせようと呼びかけるだけでは具体的候補者は現れない。現れなければ力を合わせようがない。結局、どの団体にも所属していない市民自らが、幅広い支持を得られる具体的な候補者を擁立することの必要に迫られ手さぐりの擁立活動を開始するに至った。

 2007年4月の都知事選に向けたぎりぎりのタイミングで浅野史郎氏の擁立の一翼を担ったが、反石原で力を合わせたかった勢力の一つである革新都政の会(共産党陣営)からは既に前年の秋に吉田万三氏が出馬を表明していた。石原氏は、1999年都知事選で自民党が擁立した明石康氏等を破って166万票で当選、2003年の都知事選でも自民党の推薦を受けずに308万票で当選していたにもかかわらず、2007年の都知事選では自民・公明に支援を要請し、浅野陣営と吉田陣営の力が一つにまとまる可能性を恐れ佐々淳行氏を選対本部長に迎え準備していた。

 しかし、一旦出馬を表明し、知名度不足のカバーのために猛烈な勢いで走り始めていた吉田万三氏の陣営が3月に入って浅野氏への一本化に応じることはなく、逆に民主党と連合が支援を決めた浅野氏への攻撃を開始した。統一できた場合に期待された相乗効果はマイナスとなり、得票数は、石原氏281万票に対して、浅野氏169万票、吉田万三氏63万票。単純足し算では石原氏に及ばない結果となった。

 

(3) 2011年都知事選に向けて

 

① 候補者交渉のルートを改善

またこの2007年都知事選に向けた候補者擁立活動を通じて、市民だけでは推薦した人物と速やかにコンタクトを取ることが非常に難しいということを経験した。その問題を解消するため2009年から、時代の方向性を見据えた活動・発信をされている知識人の方々に呼びかけて、候補者に推薦された人物との交渉を行うためのクリエイト委員会を立ち上げた。

 2009年は、都知事選の年ではなかったが、東京都のオリンピック招致活動に第1回目の結論が出る年であった。東京に決定しなかった場合に石原氏が都政を投げ出す可能性を考え、宇都宮健児氏にもクリエイト委員会に参加していただいている。(このときには石原氏は辞任せず、宇都宮氏は2010年度2011年度の日弁連会長に就任する)

 

② 運動としての準備

2011年都知事選までの準備期間は、東京都が抱える新銀行東京、築地移転、医療、福祉など、個別の問題点をピックアップして連続学習会を開催するとともに、2010年2月には東京都の様々な問題に取り組んでいるグループを繋ぐべく、宇都宮氏を実行委員長に、「もうごめん、石原コンクリート都政」(東京ウイメンズプラザ)を開催した。

 

③  候補者擁立活動の結果

2011年の候補者擁立については、クリエイト委員会の人脈を生かして東プロの運営委員会で推薦した方々に次々とコンタクトすることができた。最終的に出馬要請した方とは都政について理解を深めていただくための学習会を持つところまで準備を進めたが、その方から提示された「民主党から共産党までの支持を得る」という出馬の条件を整えるに至らず、擁立を断念している。

 

――今回は、2012年10月25日石原都知事が突然辞任してから短期間に2度行われた都知事選を振り返り、東プロとして2009年から繋がってきた宇都宮健児氏の擁立に関わった立場として出馬表明の経緯を報告するとともに総括を行う――

 

1.  2012年12月都知事選(宇都宮氏出馬1回目)

(1) 突然の石原氏辞任に伴う候補者擁立に向けた動向

 2012年10月25日、石原氏が辞任。突然、年内に都知事選が行われるという異例の事態になった。候補者の擁立に向けた合意形成にじっくり取り組んでいる時間がない状況で、クリエイト委員会のメンバーがこれまでに推薦された複数の方々に交渉を開始する。

 元々、2009年秋に突然の都知事選に備えてクリエイト委員会に参加していただいていた宇都宮健児氏は2012年の春に日弁連の会長選に敗れ、都知事選出馬が可能な状態となっていた。結局、交渉にあたった中で一番早いタイミングでご承諾いただくことになった。

 

(2) 東プロの関わり方

 宇都宮氏擁立に動いた人たちの構想は、美濃部都知事以後久しく叶うことのなかった社共共闘をまず実現させ、そこから支持を広げていくというものだった。東プロは2007年都知事選の際、浅野史郎氏への一本化を求めて革新都政の会(共産党も加盟団体)との関係を損ねている経緯がある。石原氏辞任から間をおかず宇都宮氏に直接交渉した方からは「東プロには、共産党陣営との共闘が成立するまでは少し後ろへ下がっていて欲しい」と要請された。

それを了承して間もなく、まだ出馬を表明する準備が整っていない段階で宇都宮氏の出馬の情報が漏れるというアクシデントが生じた。東京都知事の影響力は、政府にとっても他の自治体の首長とは比較にならない。石原都政の継承に対抗する勢力の候補者の名前が事前に漏れることは、出馬そのものに支障を来すリスクが高くなる。情報が漏れた経緯を宇都宮氏と東プロとで確認作業をする中、宇都宮氏から「出馬要請は東プロの活動の流れと認識していた」という発言があった。擁立をめざしたグループとして一旦後ろへ下がったことを反省し、責任を持って関わる方向に転換した。しかし既に、出馬を表明する土壌づくりとして、活動家や知識人等に呼びかけて共同で出す「新しい都政を求める声明」の作成が途中まで進んでいる段階であった。

 

(3) 宇都宮氏の打ち出し方とメディアの反応

 

① 声明文

その声明文は石原都政を全面的に否定するトーンで始まっていた。東プロのスタンスとして「大多数の都民が石原都知事を支持していた中、一般に共感を得にくい」と異議を唱えたが、時間がないこともあって論調を大きく変えることなく微修正のみで発表することになった。

共同記者会見では、配布された声明文を読んだ記者から「革新都政の会の主張とほぼ同じではないか」という指摘も出た。マスコミには早々に共産党系というイメージを与えた感がある。

 

② 支持基盤

 宇都宮氏の擁立準備をしていた人たちの方では、市民選対をめざして各地域の無所属市議・区議の協力を要請し、「政党推薦は受けない」という姿勢で進めることを申し合わせていた。同時に、「政策的に一致した政党・団体の支持は受ける」ということも確認されていたが、特に政党による支持の表明に関してはどこかが先に突出することのないよう横並びをめざして、各党に配慮を求めていた。しかし革新都政をつくる会との連絡が後手に回っていた。共産党は、都知事選に関しては一貫して、革新都知事の誕生をめざして結成された革新都政をつくる会(現在56団体加盟)の一加盟団体として行動してきた経緯がある。メディアの方はまず、擁立母体となってきた革新都政をつくる会の方の意向を取材した。その際、取材に来た記者に支持のニュアンスで答えたことで、真っ先に「共産党が推薦か支持をする方向で検討している」という書き方の記事が出てしまった。

 共産党(陣営)が先に支持を表明した(と報道された)候補者に、民主党や連合が支持を表明することはない。それは東プロが2005年からいろいろな団体と面談してくる過程で理解してきた、いわばその世界の常識である。

 宇都宮氏は、弱者の側に立つ弁護士として数々の功績もあり、また年越し派遣村などの活動を通じて、長年相容れることのなかった連合、全労連双方と繋がりながら運動してきた実績がある。幅広い支持を得る可能性が高い候補者であったが、この時点で既に支持の広がりがある程度限定されることになった。

 

(4) 「人にやさしい東京をつくる会」と選対の作り方について

 最初のアクションである「新しい都政を求める声明」を出す際に、公表する主体を「人にやさしい東京をつくる会」という名称にすることを申し合わせた。そしてそこをそのまま確認団体とすることとした。宇都宮氏の応援に集まる人たちとあって、皆、社会に向けて素晴らしい活動をされている弁護士や学者、運動家等の方々である。

 しかし、いかに優れた社会的活動をされている方々であっても、選挙に於いては全くの素人である。まして、都知事選という日本一大きな選挙区である。

当初、この確認団体のメンバーによる会議は、選対ができると同時に解散になると思っていた。選挙対策本部は、全都が範囲になるような大きな選挙の経験を持つ、選挙に長けた人たちにお願いしなくては難しい。他県の知事選をやった選挙のコーディネイターとコンタクトを取ったりしてもいたのだが、あまり話が進まないまま国政選挙も同時に行われる事態になり、人材が獲得できなくなった。

 

 結局、宇都宮氏の出馬準備をした当初のメンバーがそのまま選対にスライドするという作り方になってしまった。選挙を知っているのは元国立市長の上原公子氏のみである。その上原氏自身、「神輿に担がれる方だったのだから選挙事務所の中の詳しい動きなどはわからない」と、選対本部長を固辞していた。しかし誰もやる人が見つからずに結局選対本部長をやらなければならなくなった。選対事務局も同様で、大きな選挙の経験があったのは、体調の優れないところを引き受けてくださったお一人だけという状況だった。

もっとも、これまで1,000万人以上の有権者のいる都知事選を市民が中心に担ったことはない。2007年の浅野選挙は一応市民が担いだ格好だが、選挙の実務の大部分は連合東京が動いている。2012年の宇都宮選挙は初めての市民選挙と言ってもよかった。

 

 突然始まった都知事選であり、擁立までは少人数で進めざるを得なかったにしても、できる限り早いタイミングで市民自らが主体的に取り組む機運を高めなければならない。きっかけはキックオフ集会である。市民をお客様にして開催したのではその後の選挙戦への参加意識が違ってしまう。出馬表明直後の会議では、時間がないという理由で実行委員会を開かずに初期の擁立メンバーの伝手のみで開催するという話の流れだったところを半ば強引に市民中心の実行委員会主催で開催する方向へ持ってきた。それを境に市民勝手連が猛烈な勢いで誕生していく。

選対事務局も手さぐり状態で様々な対応が後手に回った。選挙を知っている方に質問が集中し、選挙戦の前半は次の日の選挙カーを回す段取りが深夜になっても組めない状態が続くほどであった。

 

(5) 各地域での選挙戦

 司令塔の選対事務局の対応が遅れる状況にあったが、ほとんどの基礎自治体で無所属の市議区議が中心になってポスター貼りなど基本的な部分を市民と一緒に担い、50を超える勝手連が誕生してそれぞれの地域で活躍した。

 

(6) 選挙結果について

 東プロとしては、宇都宮候補は本来広く支持を得られる候補者と考えていたが、結果は予想をはるかに下回る96万8960票。石原氏の後継者・猪瀬氏に対し、完全な敗北であった。

 

2.   2014年2月都知事選(宇都宮氏出馬2回目)

(1) 徳洲会問題発覚からの宇都宮氏の動向について

≪9月17日 東京地検が徳洲会を家宅捜索したことが報じられる≫

≪9月25日 猪瀬氏が徳洲会に5,000万円を返却(12月になってからの答弁より)≫

 

10月初旬 宇都宮氏から、2012年の都知事選での宇都宮選対事務局長に「前回都知事選の繋りを生かして何か活動ができないか」と電話があった。前回、選対事務局を担った若手スタッフを中心に声をかけて広げながら、活動の目的や内容、名称等についての意見交換会を数回行った。(仮称を民主主義実現フォーラムとした)

 

10月半ば 宇都宮氏の独自の判断で、12月1日に集会会場を予約

 

11月1日(仮称・民主主義実現フォーラム)会議

会場を予約してしまった関係で12月1日に何か集会をしなくてはならなくなった。当時は喫緊の課題が特定秘密保護法案であったので「民主主義社会に秘密保護法はいらない!」というタイトルの集会を企画する。主催はタイトル名の実行委員会とした。

 

11月11日(仮称・民主主義実現フォーラム)会議

 

12月1日の集会「民主主義社会に秘密保護法はいらない!」では、喫緊の問題である秘密保護法への取組とともに長期的な視点での活動提起も行うことになった。

また、この日の集会は主催者による投げかけがメインになるため、その提起を受けて、草の根の運動の盛り上げに知恵を出し合う幅広い場をスタートさせる機会として、別途12月28日に交流会を企画した。(この12月28日の交流集会「日本のピンチを希望に変えるtalk talk talk!!」が、結果的に出馬会見の場となる)

 

(2) 猪瀬辞任に伴う東プロの候補者擁立活動について

≪11月22日 猪瀬氏が徳洲会から5,000万円を受け取っていたことが報道される≫

 

11月26日 東プロ運営委員会開催

候補者推薦を行い、急な事態への対応としてこれまでの蓄積を生かして候補者に当たることが確認された。

 また、東プロ運営委員会での意見だけでなく、2012年宇都宮選挙の際に勝手連で活躍した方々にも今回の都知事選の候補者に関するヒアリングを行った。宇都宮さんの再出馬に関しては、前回の都知事選であまりにも共産党の候補者というイメージが付きすぎたことへの懸念が大半であった。他の候補者を擁立するに際しては「宇都宮氏が納得して応援に回ってくれる人物を」という要望も出された。

 

12月8日 市議・区議との情報交換会(東プロ主催)

 

11月26日に行った東プロ運営委員会で提案があり、市議区議と政策や地域の情勢、候補者への意見などの情報交換を行う。

 

12月16日 候補者推薦のための緊急クリエイト委員会を開催

   この時点で既に猪瀬氏の辞任は必至であり、ヒアリングした際の意向を尊重して宇都宮氏の都合を最優先して急遽クリエイト委員会を開催した。

  《参加者》:宇都宮健児氏、土肥信雄氏(大田区)、鈴木国夫氏(世田谷区)、冨田杏二氏(練馬区)、服部泉氏(日野市)、石塚聡氏(世田谷区)

各地域からヒアリングした内容の報告を行い、都知事選になった場合に備えて候補者に交渉を開始することで合意した。対象者3名が推薦され、スケジュールの許す範囲で宇都宮氏とともに順次当たっていくことを確認した。宇都宮氏からは「誰も立候補してくれる人がない場合には出る覚悟がある」という意思表示があった。

 

≪12月18日 猪瀬氏辞任表明≫

 

12月25日 最初に出馬を要請すると決まった方との面談に臨む

(宇都宮氏は、広島でのスケジュールがある日にあたり、欠席)

  ・面談に応じてくださった方からは、この選挙を大変重視していることがひしひしと伝わってきた。今回の選挙は単なる都知事選という意味合いに留まらず、負ければ安倍政権が進めようとしている政策への追認になってしまうということに、並々ならぬ危機感を持っていらっしゃることを感じた。東プロと初対面だったにも拘わらず面談は2時間半以上に及んだ。

  ・最終的な決断の返答は12月28日にいただくことになった

 

(3) 宇都宮氏の出馬経緯

 

12月20日 緊急運営会議

 2012年都知事選での宇都宮候補の当選をめざした確認団体「人にやさしい東京をつくる会」は役割を終えて運営会議を解散した。都知事選に備えて新しい体制の運営会議を招集(後に「希望のまち東京をつくる会」と名称変更)。

 

12月23日 新しい会の運営会議(名称未定)

 ・新しい会について今回はメンバーをオープンにしていくこと等、基本的な申し合わせ。

 ・新たに参加して欲しいメンバーについてそれぞれに推薦。

 ・「革新都政の会から、宇都宮氏の出馬表明を早くして欲しいと催促がある」という報告がなされた。

 ・「鎌田慧氏をはじめ複数の方々より、宇都宮氏の出馬に関しては、他の候補者の擁立を考えていること等を理由に、表明を待って欲しいというお願いがある」ことが伝えられる

 

12月26日「希望のまち東京をつくる会」運営会議

 ・前回の確認団体は解散処理をせず、名称を「希望のまち東京をつくる会」に変更することを確認

 ・前回推薦のあった方々5名が新たに参加。宇都宮氏の日弁連会長選を支えた仙台在住の新里弁護士、「もやい」の稲葉氏、「ピースボート」の野平氏(のちに離脱)、都内の首長選等の選挙経験豊富な「反住基ネット連絡会」の白石氏、司法書士の五閑氏(その後連絡が行き届かずこの日のみご参加)

 ・「革新都政の会から、早く宇都宮さんの出馬声明をしてほしいという矢のような催促に加え、選対に参加させてほしいという要望がある」ことが報告される

 ・「依然、鎌田慧氏等から、宇都宮さんの出馬表明は年明けまで待ってほしいというお願いがある」ことが報告される

 ・東プロが出馬を要請した方の最終的な返事は12月28日にいただくということを報告。

・他の立候補に向けた動きがある中、立候補調整、立候補表明については28日の集会(前述の「日本のピンチを希望に変えるtalk talk talk!!!」)での明確な出馬表明を見送ることになった(選対メンバー宛12月27日午後7:56に送信された議事報告より)

 

12月27日夜 宇都宮氏が出馬を決意し、複数の新聞社の取材の際に出馬の意向を伝えた。

 

12月28日朝

 ・「希望のまち東京をつくる会」のメンバーは、新聞報道で宇都宮氏が28日の集会で出馬表明をすることを知り、皆驚いた。

 

12月28日午後

 ・集会開始の直前に、東プロが出馬を要請し28日に返事をいただく予定だった方から、「新聞を拝読させていただいた」旨の留守電が入っていた

 ・集会「日本のピンチを希望に変えるtalk talk talk!!」(主催:「民主主義社会に秘密保護法はいらない!」実行委員会)で宇都宮氏が出馬表明

 ・集会第二部の交流会の最中に、東プロが出馬要請をしていた方と電話が繋がる。「希望のまち東京をつくる会」メンバーも知らないうちに宇都宮氏が新聞社に出馬を伝えていた事情を説明し、お詫びを申し上げた。

 

(4) 宇都宮氏の出馬表明をめぐって

 

① 「希望のまち東京をつくる会」メンバーの対応

12月28日夜 「希望のまち東京をつくる会」運営会議

 ・会計責任者から「26日の会議で年内の出馬表明はしないと合意していたにも拘わらず、宇都宮氏が独断で出馬を表明したことは、信義則に反する」と抗議があった。「何故26日の会議で出馬表明をすると言わなかったのか?」という質問に対し、宇都宮氏は「あのときには、そういうことを言うようなムードじゃなかった」と答弁した。会計責任者は任務を降りることを宣言した。

 ・この日の会議に参加していた他のメンバーからも、「正直、驚いた」という感想が続いたが、表明してしまったからにはやるしかないというムードであった。

 

 ② 2014年1月2日 1・13連絡会世話人と選対メンバーとの情報交換

  出馬表明の経緯に関する質問に対して宇都宮氏は、「12月28日に交渉した人からの回答がくることは聞いていなかった」、「自分がクリエイト委員会のメンバーだったかどうかよくわからない」と答弁。

 

(5) 選挙のつくり方と選対メンバーについて

 

12月28日夜 「希望のまち東京をつくる会」会議

 ・出馬表明を受け、政党などには前回と同様、支持を求めていく方向ですぐに動くという話の流れになった。しかし東プロがヒアリングを行った際に、宇都宮氏の前回の選挙の敗因に政党色が出たことを挙げた人が多かったことを受け、「本来、選挙で誰に投票するかということは個人で決めるもの。政党や団体からの支持等は一切受けずに全て個人の参加による市民選挙をめざすというやり方もあるのではないか」と提案した。しかし「政党や団体の支援なしというのは現実的ではない」とされ、逆に政党に関しては前回の「支持」より強力に支援してもらえる「推薦」を要請していくことが確認された。

 ・宇都宮さんより「革新都政の会の人が選対に入れてほしいと言っている」ことが伝えられた

 

12月30日 選対会議

 ・「希望のまち東京をつくる会」がそのまま選対に移行することになった。

 ・「革新都政の会」の氏家氏を個人の資格(持ち帰って組織と相談することはしない)という条件のもと、選対メンバーに加えることを決定

 

1月3日 選対会議

 ・「革新都政の会」から氏家氏が新たに参加

 

1月5日 選対会議

 ・氏家氏より「東京土建」の告坂氏を選対メンバーとして推薦

 

1月7日 選対会議

 ・氏家氏より再度「東京土建の告坂氏は宇都宮さんの中学校の4年後輩でもあるし」ということで選対メンバーとして推薦があり、個人の資格で参加を了承

 

1月9日 選対会議

 ・「東京土建」から告坂氏が新たに選対に参加

 

1月12日 選対会議

 ・1.13東京連絡会(前回宇都宮選挙の勝手連から移行した連絡会)の世話人を選対メンバーに加えることについて討議。

理由として、前回都知事選の際には地域で中心になって動いてくれた市議区議が、「細川との一本化」「勝てる候補を」「宇都宮は共産党色がますます強まる」など主に3点の理由から今回宇都宮選対のために動いてもらうことを期待する事は相当に困難となっている。大組織である革新都政の会と東京土建から入り、突然の発意で個人が次々と入っている中、1.13連絡会だけを排除する理由が見当たらない。実働できているのは、革新都政の会の団体と各地の勝手連くらいである。討議の結果、1.13世話人の代表者1名に個人として選対に参加してもらうことになった。

 

1月14日 選対会議

 ・1.13連絡会より個人の資格で志村氏が参加

 ・(会議にここ数回参加できなかった選対メンバーより)「今回の選対は、政党や労組などとの関係に関して選対本部とは別建てで組織的に動く裏選対をつくるという方針だったはず。市民の勝手連の代表も参加しているが、本来、勝手連というのは選対の指令の下に動くものではなく、自由に応援していただくもの。選対本部に入っているというのはどういうことなのか。これまでの議論がなし崩し的になる流れを整理してほしい」という要望が出された。(この要望は改善はされないままになった)

 

(6) 宇都宮選対への東プロの関わり方

 

 1)告示前まで

 ・2005年から都知事選での勝利をめざした経験上、都知事選に出馬するという決断をしてくれる人は滅多にいないことを承知しつつ、東プロとしては地域の勝手連や市議区議等から得た情報、意見を基に、まず宇都宮氏にも関わってもらい他の候補者の擁立をめざすことに力を入れた。しかし、宇都宮氏の出馬表明がなされたことで、他の候補者を擁立することが極めて難しい状況になった。

 当選の可能性が高い候補者ほど妨害工作が行われる。家庭争議の元となるようなゴシップを仄めかす記事をでっち上げられる場合もある。(元々政治家であればある程度の覚悟はできているが場合が多いが、)家族を巻き込んで傷つけてしまう可能性すら覚悟していただかなくてはならない。それだけでも交渉は大変である上に、既に出馬を表明した人がいる場合は、そこを取り下げてもらうという大変高いハードルをクリアしなくてはならなくなる。

 東プロとしては、宇都宮氏の合意の下という前提がなくなった上、年明けから新たに別の方にコンタクトを取って交渉を進め、出馬を承諾していただくための時間はないと判断して擁立活動を断念した。

 しかしその状況であってもまだ諦めずに動いているグループがあるという情報もあった。宇都宮選対に他から候補者調整の申し入れがあった場合、調整の議論に参加するために告示日前までは可能な限り選対会議に東プロメンバーとして参加した。

 

 2)告示日後

1月25日 東プロ運営会議を開く

 ・ 東プロとしては、宇都宮選対から撤退することが決まる。

 ・ 1月28日 選対メンバーへの同報メールにて、服部が選対メンバーから退くことを連絡

 

(7) 選挙結果について

前回の出馬によって知名度がアップしていることを前提に今回は2倍の得票で当選を目指した宇都宮氏であったが、結果は舛添氏に2倍以上の差をつけられ当選には遠く及ばない敗北であった。

 

3. 2012年、2014年都知事選を通じて

(1) 宇都宮選挙について

 

1) 宇都宮氏の得票数

 2012年と比べると投票率が62.6%から46.14%へと、16%も低くなり、且つ、2012年には宇都宮候補を支持したいくつかの政党や市民が2014年には支持をしなくなっているにも拘わらず、宇都宮氏の得票数はわずかだが1万3千票ほど上乗せになっている。

 支持政党が減り、地域での市民勝手連の盛り上がりが欠けた反面、宇都宮氏の最大の支持政党である共産党の支持率が2012年から2014年の間に大きく伸びたことが影響したと考えられる。2012年都知事選と同日に行われた衆院選比例東京ブロックにおける共産党の得票数は484,365票であったが、2014年の場合、直近の2013年7月に行われた参院選比例区東京都に於ける共産党の得票数は772,500票と、実に30万票近く伸ばしている。

 さらに宇都宮選対としても、2012年には各政党に「支持」をお願いしたのに対し、2014年にはもっと強力に支援してもらえる「推薦」をお願いしている。出口調査による共産党支持層の宇都宮氏への投票率は2012年68%から2014年は84%へと増加した。

 また今回は選対の方針として、告示日前しか配布できない顔写真と名前入りのチラシに力を注いだが、宇都宮選対が作成できたチラシが300万枚だったのに対し、革新都政の会が独自に会の名称入りで作成したチラシは500万枚が配布された。組織的に頑張ったことが伺える。

 

2)  選対本部と選対事務局

 前回は、政党との距離を置いたことで今ひとつ政党の支援が弱かったという反省に立ち、2014年の際には「支持」ではなく「推薦」を要請するとともに、選対本部に革新都政の会や東京土建という大きな会から加わった。政党の協力は両刃の刃であり、各地域の実態をヒアリングしてみると、地域差はあるものの全体としては市民選挙というより主に共産党による政党選挙の色彩が濃い選挙戦になった。

 一方、選対事務局の活動は前回の反省点を踏まえ、開かれた活気ある活動になった。ネット選挙が解禁になったことを受けて、そこを生かすべく次々と若いスタッフが参加した。既存のメディアが伝えない部分をツイキャス等で補い、候補者と都民の対話の様子や保育付きの選挙事務所の明るいムードを生き生きと伝える等、市民のパワーが感じられた。

 

3)  二回連続で大敗した原因について

   石原氏の急な引退表明に始まった2012年都知事選において、社共共闘を軸に支持を広げていくという選挙対策は、準備期間が極端に短い中で精一杯の戦略だったが、それでも告示日前までに未来の党、生活の党、生活者ネットまで支持が広がっていた。

  しかし、各党横並びで支持する報道ではなく共産党が支持を検討という報道が真っ先になされたこと、いざ選挙戦になると共産党の組織としての力が際立ったことで、選挙戦に入って以降、一般都民には共産党系の候補者という印象が強くなった。

共産党アレルギーという言葉があるが、逆に言えば、革新都政を求める人たちが、自民党あるいは新自由主義者と聞いただけで眉をひそめることと同様の反応である。共産党と見えた時点で情報を拒絶する人の割合が、新自由主義を標榜する政党をきらう人の割合より数段高い現状にある。知名度も低く、イデオロギー的に少数派の側の候補者と見えてしまったことは敗北の原因の大きな要素であると考えられる。

 

 2014年は、前回に比べて知名度も増していたし、若い人を中心とした事務局の活躍はすばらしかった。それにも拘らずダブルスコアで大敗したのは、その前進面ではカバーしきれない基本的問題があったと見るべきであろう。前回の選挙によって、少数派の社共共闘が支持基盤として定着し96万票の惨敗に終わった宇都宮氏が、同じ構図のまま二度目の都知事選に挑戦しても勝利することは客観的に見て困難であった。(cf.1975年の都知事選で美濃部都知事に敗れた石原慎太郎氏(42歳)が都知事になるのは、その間、環境庁長官、運輸大臣など、外に見える行政経験を積みながらの24年後であり、1999年の都知事選で石原氏に敗れた舛添要一氏(50歳)も今回の当選までには厚生労働大臣という都民に一番アピールする力のある行政経験を経て15年後である)

  しかし宇都宮氏は、前回の2倍の得票を目指し、勝てなかったとしても運動を進める意義があるとして、前回より幅広い支持を得る構図とする戦略を持たぬまま出馬した。

 

(2) 都知事選の構図と意義

 

  1) 特に2014年の都知事選の意味

 衆院選で自民党が圧勝してからわずか1年足らずの間に、原発再稼働への準備、特定秘密保護法案の成立など危険な方向へ突っ走っているタイミングで突然降ってわいた都知事選は、国政への審判という性格を持つことになった。国政選挙は、あと3年は行われない。負ければ、「安倍政権への承認が与えられた」と都合よく解釈され、事態はもっと悪くなると多くの市民活動家が危機感を持った。

 

  2) 統一候補をめぐる動き

 2012年には宇都宮勝手連で精一杯宇都宮氏を応援した市民や知識人のうち少なからぬ人たちが、今回は宇都宮氏以外の候補者擁立を望んだ。

 細川氏の出馬が明らかになってから一本化が取り沙汰されるようになったが、東プロも含めて宇都宮氏以外の候補者の擁立をめざしていたのは、宇都宮氏の出馬表明前である。宇都宮氏が出馬表明をしてしまってからでは他の候補者の擁立そのものが難しくなる。自公が完全に選挙協力して臨んでくる中、それ以外の勢力ができる限りつながれる土壌を用意し協力し合わなければ勝利するのは難しい。この時に動いた人たちは宇都宮陣営に出馬表明を待って欲しいと申し入れを行いつつ、社共共闘の枠組みに囚われずに支持が広がり、宇都宮陣営とも共闘できる統一候補の擁立をめざしていた。

 

  3) 統一候補づくりの頓挫

  ところが、その最中に宇都宮氏が単独で出馬表明をしてしまった。他の人が立候補を受諾するかどうかわからない段階で突然希望が潰えてしまった。このことは、そのあとに原発ゼロを掲げて出馬を決意した細川氏への一本化を求める声へと繋がっていく要因となる。

 

  4) 短期間で調整するには大きすぎた細川氏との距離

 しかし、細川陣営は元々共産党系と見做されている候補者との調整は念頭に置かず出馬したし、宇都宮選対も一本化に応じるつもりはなかった。細川氏が首相時代に行った政治への評価もさることながら応援しているのが小泉純一郎氏とあって、「どうして細川支持に回れるのか全くわからない」という意見が大半であった。

 一番左寄りと認識されている党派が支援する宇都宮氏と、新自由主義を推し進めた小泉氏が支援する細川氏のギャップは大きく、原発以外の政策では、細川氏はむしろ保守層を割った勢力とみるべきであろう。

 しかし今回、どうしても勝ちたいと思った市民と著名人の中から、そこをも繋ごうとする動きが起こった。

 

4. 今後の展望

 1) 運動における枠組み論の克服

  原発という命に関わる重大な問題において、かつては推進してきた側の細川氏と小泉氏が、注目の集まる都知事選という舞台で原発ゼロを発信した功績は大きい。

 今後の運動の発展にとって、原発ゼロが一部の人々の運動であると矮小化されないためにも、イデオロギー的枠組みにとらわれない国民的運動を発展させたい

 

  2) 都知事選における共闘

  いろいろな声に耳を傾けて丁寧に政策をつくっていくことは基本である。宇都宮選対の政策は、多岐にわたる問題に配慮した素晴らしいものであった。しかし細やかに配慮した政策を作ればつくるほど、共闘が難しくなるというデメリットも出てくる。違いの方が際立つからである。

そして、作った政策のうち、限られた予算、限られた任期の中でどれだけ実現していくのか。東プロでは、県知事を3期務めた浅野史郎氏擁立過程での対話を通じ、自治体首長としての経験談にも触れている。それまでの政策を転換するために一生懸命取り組んでも、変革が実現するのはせいぜい2割だという。それ相応の年月をかけて議会で機関決定して進んできているものが、知事が変わったからといって一気に変わるものではない。

  今回のように右の端と左の端から原発のみの政策で調整するのは困難だったかもしれないが、全ての政策が一致するまでの間は安易な共闘を拒絶して支持者を増やす活動に終始するのか、それとも一番大切な政策の実現に絞って力を合わせ、確実に一つひとつ変革していくのか、市民として都知事選に挑むに当たりこれからもよく論議しなければならない課題である。

 

  3) より多くの人の選挙への関わり

  今回は、これまで公に選挙で特定の人物の応援をすることから一線を画してきた著名人の中にも、この大きな意味を持つ都知事選でなんらかの意思表示をしてくれた人たち多数現れた。ここ数十年の日本人の特徴の一つとして、政治選挙に関わらないことが「普通の市民」であるかのような錯覚に陥っているところがある。しかし、危ない方向へ舵を切ろうとしている日本を本気で案じる人たちが立ち上がったことが、多くの日本人に、自分たちの住む社会を選挙によって変えていくことの大切さをアピールしていく一歩になったのではないかと期待する