東京なのに”宇都宮”、弁護士なのに”けんじ”。 「宇都宮けんじ」さんってどんな人?

写真 森住 卓
写真 森住 卓

 このひょうひょうとしたオジサンが、苦難を承知でヤミ金とのたたかいを切り拓き、年越し派遣村の名誉村長をつとめ、初めて完全無派閥の日弁連会長をつとめたという。

 

この強さと、人を惹きつけてやまない優しさは一体どこからくるのだろうか。それはその生い立ちに深い関係がある。

鍬を持ち、荒れた大地を開墾する「父の手」が原点 ──貧しかった生い立ち

1946年12月1日、愛媛県の小さな漁村に生まれ、9歳の頃、開拓農家として、一家で大分県に移り住む。電気などもちろん届かない荒れた土地を、いちから開墾し、朝暗いうちから夜遅くまで、ひと鍬ひと鍬、懸命に耕す父親の姿を見て育つ。「肉が見えるまで皮膚が裂け、そこにワセリンをすりこんで、また鍬を持つ。その父の手が忘れられない」。親孝行したい一心で、猛勉強し、東京大学に入学。
大学では、卓球部で汗を流す一方、被差別部落を描いた『わたしゃそれでも生きてきた』(東上高志)、産炭地児童の生活を記録した『小さな胸は燃えている』(芝竹夫)という本に大きな衝撃を受け、「父のような、貧しく苦労する人びとのために、力を尽くそう」と弁護士になることを決意した。

人間は、他人のためなら強くなれる──頼りにされる凄腕弁護士として

大学在学中に司法試験に合格し、華々しい弁護士人生がはじまるかと思いきや、法律事務所の居候弁護士“イソ弁”として、12年間の長い下積み生活を送る。そのなかで、受任する弁護士がほとんどいない、サラ金相談に出会う。苛酷な取り立てに追われ、精神障害を起こしたり、自殺をはかる人びとの苦しみを目の当たりにし、この問題に本格的に取り組み始める。小さな仕事を数多くこなし、相談者からは、月5000円、一万円などの少額を分割でもらった。「青白く、やつれた相談者の顔が、みるみる明るくなっていく。それが私にとっては、お金以上の財産だった」。 サラ金、ヤミ金業者からは、“何があっても引き下がらない弁護士”として怖れられる存在になる。2006年、国会に働きかけ、グレーゾーン金利を撤廃させる画期的な貸金業法の改正を実現させた(2010年実施)。


「取り返すのは金ではない。狂わされた人生だ」


貧困と格差が広がる昨今は、日雇い派遣労働者の町を歩き、生活に苦しむ人びとへの法律相談も多数受任。「反貧困ネットワーク代表」「年越し派遣村名誉村長」として奮闘。
「大丈夫。仕事も人生もやり直せる」。問題解決のために全力で奔走する姿勢に、多くの相談者から絶大な信頼を得ている。

政治家とは、困っている人のために働く存在──人にやさしい東京をめざして

      写真 森住 卓
      写真 森住 卓

2010年、3万2000人の弁護士を束ねる日弁連の会長選挙に、日弁連史上はじめて完全無派閥で立候補。激戦の末に、当選を果たす。
日弁連会長として、人権擁護などに尽力するなかで、東日本大震災と原発事故が発生。福島をはじめとする被災者の支援に、先頭に立って取り組む。
2011年4月、いち早く、文部科学省が福島県内の学校・幼稚園などで屋外活動を制限する際の目安とした放射線量の見直しを求めたほか、2011年10月には、「避難区域外の避難者に対する損害賠償に関する会長声明」、2012年4月には、「障がい等を有する福島原子力発電所事故被害者に対する損害賠償について特別の配慮を求める会長声明」を次々に出すなど、迅速かつ勇気ある行動が話題を呼んだ。会長を退いたあとも、生活や自然環境を一瞬にして破壊してしまう原子力エネルギーからの一日も早い脱却を求めつづけている。
また、「東京都は、福島原発で発電した電力の最大の消費地。原発事故の被害者のみなさんを全力を挙げて支援する、救済する大きな責任がある」と考え、「脱原発を東京から」を強くアピールしている。
「日本の社会は、私の父や母のように黙々と働いてきた、名もない農民や漁民、労働者などによって支えられてきた。政治家とは、そうした人びとのために働く存在。ひとりひとりが大切にされる社会にしていかなければ」と語り、人にやさしい東京の実現をめざしている。 (「人にやさしい東京をつくる会」HPより引用)

 

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